点鍾 :根本会長
ソング :手にてつないで
司会 :田仲会員
お客様

田仲委員長卓話
田仲委員長卓話

皆さん こんにちは!

 さて、今日の卓話は大矢幹事から依頼されました。
軽い気持ちで、お受けしましたが、会員の皆様の貴重な時間をいただくに足る内容があるか?不安でございます。
 今日は皆さんの参考になるかどうか?自信がありませんが、今年70歳の古希を迎えましたので私の70年を振り返ってみたいと思います。
私は1950年(昭和25年)に現在の鴨川市の山の中で生まれました。
終戦から5年目の事であり食糧も今のように潤沢ではありませんでした。
私は大変、ひ弱な子どもでした。「金火箸」と呼ばれた体の細い子どもでした。
しかし、小学校の時は宿題もない、塾もない、勉強は学校でするもので、一歩学校を出れば勉強はするものではないという環境で育ちました。
文字通り「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川」と遊びの中で体力を付けていきました。
 小学6年生の2学期に市原に転居しました。
因みに小学校の修学旅行は市原に来てからでした、当時はまだ食糧が不足していたのでしょうか?各自米を持って旅館に泊まりました。
体は丈夫になりましたが、鴨川での習慣が抜けず、中学3年までは家では殆んど勉強をしませんでした。
夜になると父の会社の従業員たちと夜釣りをしたり、バイクでツーリングをしたりと遊んでいました。
高校受験の前、1月頃まで家での受験勉強をしませんでした。幸いなことに両親とも勉強をしなさいとは一切言わなかったので、遊びと部活で大らかな中学生活を送りました。
高校は県立木更津高校でした。当時学年の女生徒は1割くらいしかいませんでしたので、9クラス中、女子のいるクラスは4クラスでした。私は3年間、男子ルーム(男だけのクラス)でした。
美少年の私がいると女生徒の勉強に差し障りがあると、学校が考えたようです。
高1の時にビートルズが来日し、木更津のレコード店の娘が同学年にいて武道館のチケットを2枚持っているとのことで、一緒に行ければいいなと思っていましたが、3年生の先輩と行ったということでした。残念な思い出です。
その頃、テレビドラマの影響で将来は弁護士になろうと思い、大学は中央大学・法学部・法律学科に行きました。
当時は学生運動が終わっておりませんでした。お蔭で学園祭もありませんでした。
代わりに4年生の時「中央大学ナイトハイク」とい行事がありました。
お茶の水の校舎から、多摩の工事中の校地までの50Kmを一晩で歩くものでした。
私は気付け薬として日本酒の一升瓶をぶら下げて歩きました。歩き終わる頃には空なっていました。
また、大学生の4年間には記憶に残る出来事がいくつかありました。
1970年の三島由紀夫事件、よど号ハイジャック事件、1972年は札幌オリンピック、あさま山荘事件、沖縄の復帰、日中国交正常化、1973年に金大中事件、第一次オイルショック等々がありました。
大学に入った目的の司法試験に落ちるという想定はなく、好きな格闘技をもう一つ習いたいとボクシングの田辺ジムに入門しました。
何とかC級ライセンスは取れましたが、肝心の司法試験は5月の短答式は受かりましたが、7月の論文式は不安がありました。
ある日、千葉駅でスーツを着た高校の同級生と会いました。
何処に行くのか尋ねると会社訪問で千葉銀行に行くとのことでした。
今からだと昼飯くらいは出るのでは?とジーンズにTシャツ姿にも拘わらず一緒に千葉銀行に行きました。採用担当の人事部の方から「変わった服装の会社訪問だね!7月1日はきちんと背広を着て、来てください」との言葉をいただきました。
実質的な内定の意思表示と思いました。
予想卯していた通り7月の司法試験論文式は不合格になりました。
参考までに私が落ちた昭和48年の司法試験は出願者25,339人、合格者537人で倍率は
47.2倍でした。
そんな倍率の中で司法試験浪人をすると私の性格からいって、何年浪人するか解りませんので、就職を決めてしまいました。
昭和49年、千葉銀行に入行しました。
ロータリークラブの存在を知ったのは、この頃です。
支店長を例会場に送っていった時です。
会場を覗くと銀行のお客様が多くおられました。
普段、若い行員では口もきけないようなお客様が名札を付けてタスキを掛けている姿を拝見し、変わった団体だなと思いました。
銀行員時代に結婚をしまして、長女、長男に恵まれ、忙しい中にも家庭サービスも欠くこともなく、楽しい生活を送っていました。しかし、その裏で私の結婚により涙した女子行員が数名おられたとのことです。
銀行では3つの支店、本部で2部門の勤務をしました。
 30代の後半になると父の会社の従業員たちから私に強烈なラブコールがありました。
平成元年9月に銀行を辞めて、父の会社に入りました。
2年経たないうちにバブルが崩壊しました。1人前の経営者になる為の試練と前向きにとらえました。
 1994年(平成6年)、会社のお客様に誘われて当クラブに入会させていただきました。
各委員会の委員長を務めさせていただいた後、2005〜6年度に幹事を仰せつかりました。ふつうは会長エレクトから幹事就任の打診をいただくのですが、その時はどなたの下で幹事を務めるか不明のまま承諾しました。
2010〜11年度に会長をさせていただきました。この時は幹事を務めていただいた守屋会員には大変お世話になりました。
 その後、2012〜13年度に当時の第3分区Bのガバナー補佐を拝命いたしました。
この1年間は多くの他クラブのロータリアンと親しくさせていただきました。
ここまでは、お話のあった役職は全てお受けしてまいりましたが、ガバナー補佐を終わった後、大学の先輩であるPGから某役職を熱心に薦められましたが、断腸の思いでお断りしました。
 その後は一ロータリアンとして、楽しく過ごさせていただいております。
5年前、息子がいますが、後を継ぐ意思がないことが解り、会社を営業譲渡し今は譲渡先の会社の相談役として週3日勤務しています。
 先週のガバナー公式訪問の時に紹介されていたようにRIのホルガー・クナーク会長がおっしゃていた「日本のロータリーは親睦と職業奉仕を大切にしている」に同感しています。
社長でなくなった為、十分な職業奉仕が出来ないと思った私は2018〜19年度の藤田会長に退会届を提出しましたが、受理されませんでした。
 宮寺年度が終われば退会しようと思っていましたが、現会長の根本さんとは仕事の関係で古い付き合いですので、退会するわけにいかず、ずるずると会員を続けています。
私のつまらない70年の振り返りでは、皆様に申し訳ありませんので、終わりに若干、ロータリーについてお話をさせていただきます。
いつだったか忘れましたが、RIは「ロータリーの真の姿はESSで表される」と発表しました。
ESSとは
E:ENJOY……職業の異なる会員が信頼感をもって心から楽しみ、親睦を深め友情を
         あたため、喜びを通じあって成長していく。
S:STUDY……ロータリーから人生哲学、職業倫理を学び、多くの会員の人生観から
         学び自己研鑽に励んで人間性をたかめる。
S:SERVICE …思いやりの心で人のお役に立つ行動をというロータリーの奉仕をごく
        自然に自分の生活の中に活かすことで、世の為、人の為に尽くす。

 私の話の個人的な部分はどうでも良いと思いますが、今日はこのESSだけでも覚えていただければ、卓話をさせていただいた価値があると思います。
どうぞ、これからのロータリアン生活に活かしてみてください。
ご清聴ありがとうございました。

出席報告:
在籍:47名
出席:23名
出席率:51.16%
前々回出席率:53.49% 

事務局:
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